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イサム・ノグチ(1904-1988) その7 彫刻家、イサム・ノグチ(後編)

イサム・ノグチ(1904-1988) その7 彫刻家、イサム・ノグチ(後編)

その7

彫刻家、イサム・ノグチ(後編)

彼はただの彫刻家ではなく、哲学者のようでもある。おそらく彼はそれを否定し、自分は彫刻家だと反論するであろうが。イサムは彫刻を通して、世の中の真理を追求した。アートが、美が、人間にとってどういう意味があるのか、またどうあるべきかを考えていた。彼のエッセイを読むと、彼がいかに物事の本質をとらえようとしていたかがわかる。

彼曰く、「彫刻はぼくにとって容易に理解できない空隙と圧力に対する執着、空間の句読点になる。彫刻が岩なら、それはまた岩と岩とのあいだ、岩と人間の間の空間でもあり、それらのあいだのコミュニケーションと見つめあいである」と。いつも彫刻をしながら、思索をめぐらし、物との対話を通じて彼がたどりついた真理はとても研ぎ澄まされ洗練され、かつシンプルでもあり、アメリカ人らしくもある。

彼は彫刻家として大きくなっていく中で、そのやり方は試行錯誤を繰り返した。素材も変化し、小さいものから大きなものまで、あらゆるものにチャレンジしながら独自のやり方に至っている。彫刻を始めた当初、粘土で胸像を作っていたが、のちにそれが愚行であったと後悔もしている。粘土のような媒体では何でもできてしまうし、それは危険だとも話している。彼の彫刻のスタイルは師であるブランクーシにも似て、完璧主義でもあり、ものの材質の本質を見極め、職人のような技術で無駄なものを削ぎ落とし、語りを浮かび上がらせるというものであった。そして最後には石そのものを削るが、ほとんど素のままの形を残すスタイルになっていった。

香川にあるイサムノグチ 庭園美術館の庭に並べられた石たちを見てほしい。彼がどれほどまでにその石たちを思い、それを削り、並べたかがわかるだろう。今も生前に彼が並べたとおりに石たちは配置されている。その向き、場所、間隔、空間。すべてが彼の心の箱庭である。細長く地面に立てられた石は、人に見立てているという人もいる。龍安寺の石庭のようでもあるとも言われる。彼は自分の心に素直に従い、それを形にしていった。彼の作品はその大きさも特徴的である。彼が「大地を彫刻するという発想が好きだ」と述べたように、丘をデザインしたエルサレムの彫刻庭園のように、大きな仕事をするのも好きであった。あるアルミの会社からデザインを頼まれたときには、2マイルのアルミの造形物をデザインしたらしい(これは却下された)。いつか人類は、月から地球を見たときに見えるような彫刻を作るときがくるかもしれないとイサムは言っている。どこまでも大きなスケールの大きな視点で彫刻をしていたかがわからエピソードでもある。もしかするとこの背景にあるのは、彼の孤独やそれを乗り越えたときに至った彼の心境なのではないかと思う。家族愛に恵まれなかったイサムにとって、大地、地球、宇宙という規模に自分の心を開くことにより、ようやく彼の心に安らぎが訪れたのではないかと想像するのである。

話は変わるが、彼は思索を続ける中で、アーティストの役割を、後世に芸術の伝統を伝えるという特別な義務がある——想像力を通して真理を深く求め、その光を人々の心の暗闇に投げかけるために——と言っている。さらには、完全な芸術家とは「みずからの芸術がさらに含意するものの探究に身を捧げる芸術家だ」としている。彼はその言葉のとおり、彫刻をしながら、人間の真理に近づこうとしていた。「ある意味でぼくは、人は自分自身を失えば失うほどますます自分自身になるのだと感じている」とも言っている。この禅問答のようなことばを本当に理解できるのは数少ない芸術家や哲学者の特権なのかもしれない。

アイデンティティや両親との関係性を心の中に抱えながらも、彫刻家として大きな仕事を成し遂げることができたのは、彼が自分の心に忠実に思索を続け、それを自らの得意な彫刻という形で表現し続けたからだろうと思われる。母の思うように生きたと彼は言ったが、ここまでの人になろうとは母レオニーも思ってはいなかったのではなかろうか。

最後にイサムの言葉を引用して終わりたい。

「余暇の楽しみがよき生活の尺度となる時代がくるだろう」。人がアートを見つめるとき、そこに自分を見出し、自分と向き合う。ゆっくりとした時間が流れ、以前と少しばかり成長した自分に出会う。そんな楽しみ方ができる世の中がいずれ来るのかもしれない。

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年

文 中村 晃士