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イサム・ノグチ(1904-1988) その6 彫刻家、イサム・ノグチ(前編)

イサム・ノグチ(1904-1988) その6 彫刻家、イサム・ノグチ(前編)

その6

彫刻家、イサム・ノグチ(前編)

イサムは自分の人生を振り返って、「母が思うような人生を送った」と述べている。イサムは5歳のときに幼稚園で、波の彫刻を作った。この出来栄えは幼稚園でも話題となり、母レオニーがイサムをアーティストに育てようと思ったきっかけとなった。レオニーが見出した美やアートへのイサムの親和性を生かし、彼は周囲のすすめに従って医者になることもなく、彫刻家として大成したのであった。そういう意味で、混血児としてのイサムがこの世の中でどうしたら生きていけるかをレオニーは見抜いていたと言える。

しかしその母に対してでさえ、見捨てられたという気持ちを抱いていたのは、第2、3回の項で述べたとおりである。また父に対する両価的な感情についても第4、5回で触れたが、両親との関係性も複雑なまま彫刻家となり、その原体験が創作活動に大きな影響を与えている。彼の中の寂しさや孤独、その感覚を乗り越えた時の発想のスケールの大きさはここにあるのではないかと筆者は考えているが、これは後述することにする。

彼が世の中に認められていく中で、大きな障壁となったのが日系二世という血である。父の項でも触れたように、父米次郎が体験したように、イサムはアメリカ人にしては東洋人らしく、日本人にしてはアメリカ人らしかったのである。日本とアメリカの狭間でイサムはとても苦しむこととなった。アメリカ美術界では、日系人だからと揶揄され、その作品や企画が認められなかったり、逆に日本では1952年には原爆慰霊碑を数ヶ月かけてデザインしたが、アメリカン人の血が入っていると拒絶されたりもした。

こうした両親との関係、日米の狭間に置かれたイサムの体験は、その後の彼の作品にも大きく影響していく。子どもたちが楽しめる空間をと公園をたくさん手掛けたりしたのもそうである。日本の自然の中で過ごした幼少期の思い出が未来ある子どもたちの遊び場を作る原動力になっていたのではなかろうか。またアートの中でも彫刻というもの、さらには石を用いて作ることにより、自分の作品が長きに渡り、この地球に残っていく姿に親和していったこともそうであろう。そして彼の祖国はアメリカでもなく、日本でもなく、地球だったのである。地球を彫刻するというのが彼の仕事であった。

イサムの一つの側面としてよく取り沙汰されるのはその女性遍歴である。メキシコ人画家ディエゴ・リベラの妻であり、本人も芸術家として有名なフリーダ・カーロ、インド独立の父ネルー首相の姪であったナヤンタラ、国際女優山口淑子(生涯で唯一伴侶とした)など、名だたる相手と生涯を通して恋に落ちている。彼が両親から捨てられたような心持ちで生涯を過ごしたのは前述のとおりである。彼は女性関係に無頓着な父親に振り回されているが、イサム自身もその血を大いに受け継いでいるとも言える。アートを生み出す原動力として女性と付き合っていた見方もあるが、いずれにしても両親に対する両価的な感情を抱きながらも、それを解消することはできなかったのは彼の女性遍歴をみれば明らかであろう。イサムと作品たちと女性たち。切っても切り離せない関係がそこにはある。

(つづく)

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年

文 中村 晃士