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イサム・ノグチ(1904-1988) その5 父、米次郎(後編)

イサム・ノグチ(1904-1988) その5 父、米次郎(後編)

その5

父、米次郎(後編)

さて、イサムは20代から30代にかけてアメリカ人の彫刻家として名を成していくが、第二次大戦の前後であったこともありそのアイデンティティは日米の国家間を彷徨い、またそれに引き摺られて実父米次郎との関係は相変わらず残酷なものであった。日本国内外を問わず積極的に日本の国家としての振る舞いを宣伝・弁護して回ったりしていた米次郎を引き合いに出し、イサムと米次郎との父子の関係を政治的に利用しようとするものさえいた。

当時イサムは、他のニューヨーク在住の日本人芸術家と同じく日本批判を行っており、そのためニューヨーク在住の日本人コミュニティにおいて「日本の愛国詩人、野口米次郎の豚児」と冷笑されていた。まず、そこに目をつけた日本政府が接近し、イサムに対し父を見習って日本の味方になるよう迫ったが、固辞した。そしてそれだけでなく、後にアメリカからもイサムに接触があり、父米次郎の繰り広げる国際的な扇動的振る舞いに対しイサムが公開状を書くよう打診があった。結局、こちらも在米していた中国人の学者の説得により辞退したが、イサムは父親を「国家主義の唱導者」と呼び、民主主義の敵と名指しした。

一方で、日系人がアメリカ国内で捕虜として収容された際には、イサムはその収容所に出向き自ら収容されるよう願い出るという行動を起こした。そのことから、イサムは日系二世としてのアイデンティティを模索しながら、両国の政治的な思惑をかいくぐりつつ、日本人の血を引くアメリカ人として日本人である父と対峙していた。

しかしながら父子関係の終焉は驚くべきものだった。

日本が敗戦から一年たち、イサムはジャパンタイムス誌に一つの記事を寄稿した。それは、日本は戦後、武器ではなく、持ち前の本能的ともいえる優れた美的感覚、文化によって復興できるという励ましの書であり、それに米次郎が胸を打たれたと返書を出し、二人の交流は生まれて初めて温かいものとなった。父の身を案じたイサムは、通信社を通じて父の安否を確かめたという。そしてその居場所がわかると、健気にも彼の元に生活に必要なものを送り続けたが、実はその頃すでに父親は病に侵され、そのわずか2ヶ月後には亡くなってしまうのであった。

イサムの父親に対する痛いほどの愛の渇望、および実際の父親に対する嫌悪感の二つの感情によって成り立つ両価性は、作品作りのエネルギーとなっている。彼が父親を拒否したり批判したりしながらも、父親譲りの猪突猛進なやり方、日米の間で苦悩したことは奇しくも父と同じ道をなぞっているように見える。

しかしながら、野口米次郎とイサム・ノグチの最も異なる点を挙げるとすれば、それは芸術家としてのアイデンティティの確立の仕方であろう。戦前に詩人として名を上げるという目的で渡米をしたかと思えば、第二次大戦では愛国詩人と呼称されるほど国内外で扇動的な活動を繰り広げたりするなど、国という大樹の陰に寄り添った米次郎に対し、イサムは日本人の米次郎とアメリカ人のレオニーの間に生まれ、その出生から芸術家として世界的に名を馳せたのちも、アメリカにおいても日本においても、常に国家や文化の間での摩擦を体験してきた。イサムの人生を貫いた葛藤はやがて、まるで父米次郎に対する花向けの言葉のようなあの、戦後日本を文化で復興させよと力強いメッセージを寄稿できるほどに、イサムを偉大な芸術家たらしめた。

(つづく)

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年

文 中村 晃士