その4

父、米次郎

 

前述の通り、イサム・ノグチの父は詩人で女性関係では奔放であり、特に中年頃までは行き当たりばったりの人生を送った。

レオニーの項でも書いたが、米次郎は息子の誕生と命名を請う手紙がレオニーから送られてもそれに応えることはなかった。そのせいもあってイサムは、2歳4ヶ月の時にようやくレオニーと来日し米次郎から勇(イサム)と名を与えられるまで、ヨセミテという地名からとった「ヨー」と呼ばれていた。

米次郎は日本についた我が息子と対面して、「男とはなんと自己本位なものか」と後悔の言葉を口にしているが、それも長くは続かなかった。女中まつ子との間にも子供を授かり(まつ子は長女一二三を頭に、米次郎との間に9人の子供を設けている)、レオニーとまつ子の家庭との二重生活を続けた。さらにはまつ子を含めた家族は籍を入れたが、レオニー、イサムは生涯戸籍に入れず、イサムはずっと私生児のままであった。ほどなくして米次郎は慶応大学の教鞭をとりながら、それ以外の日には詩の執筆を理由に鎌倉の家にこもるようになり、徐々にイサムとレオニーの家庭とは距離をとるようになった。幼少期に日本に滞在していたにも関わらず『父親がいた生活というものは、まったく記憶にない』とイサムが後年に述べている通りである。

このような米次郎の振る舞いがイサムの根源的なアイデンティティに影響したことは言うまでもないが、イサムがそれに対してどのように精神的に対峙していったかを想像する時、胸が苦しくなるのは私だけではないだろう。

その後イサムが日本の学校に馴染めなかったこともレオニーの項で書いた通りであるが、実はイサムが横浜港から旅立つ日、米次郎が駆けつけた。イサムの渡米に突如反対をし、「養子として入籍する」と言い出したのだ。背景にはまつ子との間に生まれた長男春雄が6歳で急死したことがあったと推察されるが、結局、米次郎の「お前は日本に残れ」という言葉に、イサムは「No!」と言い残してアメリカに渡って行ったのである。自分を極限まで追い込んだ戸籍の問題すら、いざイサムが離れるとなったら身勝手にも意見を変える父親の姿は、イサムにどのように映ったのだろうか。

 

 

米次郎との関係で苦しんだイサムがアメリカに渡ってから出会ったのは、インターラーケン校創立者ドック・ラムリーである。彼はイサムに銀行の通帳を作ることから、アメリカ人としてどう生きるかの全てを教育したという。ラムリーはイサムを自宅に引き取り、部屋を与え、自分の子供たちと同じように育てた。そのおかげで日本では見向きもしなかった勉学に励むようになり、優秀な成績を収めるようにまでなったのである。そして、ラムリーの勧めで医学部に進んだイサムであったが、母親の反対、野口英世の「医者になるな」という助言、さらには自分のアイデンティティの見つめ直しにより結局医学を辞め芸術家としての道を歩み始めるのであった。しかし、イサムの力を信じて献身的に叱咤激励を続け、彼の勤勉さを引き出したのは間違いなくラムリーであり、まさにイサムにとっての父親代わりであった。

ラムリーの期待した道から逸れたイサムであったが、その後芸術の道でもう一人の父親代わりが現れる。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシである。

アメリカで彫刻家になると決めたイサムがフランスに渡ったのが23歳の時であったが、父親米次郎が詩人ミラーの家に押しかけたことを知ってか知らずか、イサムもまたブランクーシのアトリエに押しかけ助手生活を送った。やると決めたからには愚直なまでに行動に移し、相手もその熱意と人柄に動かされてしまうのは米次郎とイサムの共通点である。

イサムはブランクーシが木靴を履いていると、それを真似して木靴を履いて街中を闊歩するなど、健気に良い男性のロールモデルを求める姿がここにも垣間見えた。イサムが彼の助手でアトリエに出入りできたのはわずかに7ヶ月のそれも午前中だけという短い期間であったが、ブランクーシの物の真髄を見極め、素材の真の姿を掘り起こすという職人気質に日本人のそれを見ていた。イサムはその後の彫刻家としてのインタビューで度々彼からの影響や言葉を引用しており、彫刻家としての彼にとって父親/良いロールモデルであったと思われる。

さて、イサムは20代から30代にかけてアメリカ人の彫刻家として名を成していくが、第二次大戦の前後であったこともありそのアイデンティティは日米の国家間を彷徨い、またそれに引き摺られて実父米次郎との関係は相変わらず残酷なものであった。日本国内外を問わず積極的に日本の国家としての振る舞いを宣伝・弁護して回ったりしていた米次郎を引き合いに出し、イサムと米次郎との父子の関係を政治的に利用しようとするものさえいた。当時イサムは、他のニューヨーク在住の日本人芸術家と同じく日本批判を行っており、そのためニューヨーク在住の日本人コミュニティにおいて「日本の愛国詩人、野口米次郎の豚児」と冷笑されていた。まず、そこに目をつけた日本政府が接近し、イサムに対し父を見習って日本の味方になるよう迫ったが、固辞した。そしてそれだけでなく、後にアメリカからもイサムに接触があり、父米次郎の繰り広げる国際的な扇動的振る舞いに対しイサムが公開状を書くよう打診があった。結局、こちらも在米していた中国人の学者の説得により辞退したが、イサムは父親を「国家主義の唱導者」と呼び、民主主義の敵と名指しした。一方で、日系人がアメリカ国内で捕虜として収容された際には、イサムはその収容所に出向き自ら収容されるよう願い出るという行動を起こした。そのことから、イサムは日系二世としてのアイデンティティを模索しながら、両国の政治的な思惑をかいくぐりつつ、日本人の血を引くアメリカ人として日本人である父と対峙していた。

しかしながら父子関係の終焉は驚くべきものだった。

日本が敗戦から一年たち、イサムはジャパンタイムス誌に一つの記事を寄稿した。それは、日本は戦後、武器ではなく、持ち前の本能的ともいえる優れた美的感覚、文化によって復興できるという励ましの書であり、それに米次郎が胸を打たれたと返書を出し、二人の交流は生まれて初めて温かいものとなった。父の身を案じたイサムは、通信社を通じて父の安否を確かめたという。そしてその居場所がわかると、健気にも彼の元に生活に必要なものを送り続けたが、実はその頃すでに父親は病に侵され、そのわずか2ヶ月後には亡くなってしまうのであった。

イサムの父親に対する痛いほどの愛の渇望、および実際の父親に対する嫌悪感の二つの感情によって成り立つ両価性は、作品作りのエネルギーとなっている。彼が父親を拒否したり批判したりしながらも、父親譲りの猪突猛進なやり方、日米の間で苦悩したことは奇しくも父と同じ道をなぞっているように見える。しかしながら、野口米次郎とイサム・ノグチの最も異なる点を挙げるとすれば、それは芸術家としてのアイデンティティの確立の仕方であろう。戦前に詩人として名を上げるという目的で渡米をしたかと思えば、第二次大戦では愛国詩人と呼称されるほど国内外で扇動的な活動を繰り広げたりするなど、国という大樹の陰に寄り添った米次郎に対し、イサムは日本人の米次郎とアメリカ人のレオニーの間に生まれ、その出生から芸術家として世界的に名を馳せたのちも、アメリカにおいても日本においても、常に国家や文化の間での摩擦を体験してきた。イサムの人生を貫いた葛藤はやがて、まるで父米次郎に対する花向けの言葉のようなあの、戦後日本を文化で復興させよと力強いメッセージを寄稿できるほどに、イサムを偉大な芸術家たらしめた。

 

 

 

(つづく)

 

 

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年

 

 

 

 

文 中村 晃士