その3

母、レオニー(後編)

 

新しい学校でもうまく馴染めなかったイサムにレオニーが与えた役割は、新しく彼ら自身が住む三角の家の設計だった。

イサムはレオニーの完全なる共同設計者として、また現場監督として母親が驚くほど活躍した。その建築現場でイサムは大工たちの手元に目を奪われ、自分でも大工道具を集めた。茅ヶ崎の三角形の家から横浜までイサムは通い続けたが、とうとう10歳のとき学校には絶対に行かないと言い、レオニーは自分で教育することを決意した。勉強を教える母にイサムは人は早くから仕事につくべきだと主張し、造園家、園芸家になると宣言し、またそんなイサムにレオニーは鎌倉の寺の庭園を見せに連れ歩いては日本文化を教えた。イサムは三角形の家の庭を任され、それに呼応するようにバラや山から採ってきた山ツツジなどを育てた。しかし、レオニーによる自宅学習はそれ以外の部分では功を奏さず、困った彼女はイサムを大工修行へとやったり寮に入れたりとしたが、結局のところイサムを日本文化の中で日本人らしく育てるというレオニーの夢は叶わなかった。

そんな折、イサムが13歳の時に第一次大戦が勃発し、それが二人の関係を決定づける。大戦の勃発は、私生児であるにも関わらず日本人を父に持つイサムが、日本国に徴兵される可能性を示唆していた。母と息子の関係が不安定な中、レオニーはイサムの身を守るためイサムをアメリカ領事館に連れて行き、アメリカ市民権をとらせ、急いでアメリカの学校を手配して船で一人イサムを渡米させたのである。

家の外に行き場もなく、家の中でも反発してばかりだった孤独なイサムにとって、母から言い渡された突然のアメリカ行きは、母の裏切り、母に捨てられたと感じるのに十分な衝撃であった。資料としてアメリカに渡航する時のイサムのパスポート写真が残っているが、まだ幼くどこか不安げなイサムを見ることができる。

それでもレオニーはイサムが一番安全な形で、きちんとした教育を受けさせることに心を砕いたのだった。彼のアメリカでの学費も馬鹿にならなかったが、日本で英語の個人教師の仕事を増やすなどして送金を続けた。そのおかげで、イサムは紆余曲折を経て彫刻家へとなるわけであるが、13歳のイサムが受けた衝撃は強く、その数年後にレオニーがアイリスとともに渡米を果たしたのちも、彼が再びレオニーと距離を縮めることはなかった。イサムは父にも母にも捨てられたという心情を抱え、自分で自分の道は切り開かないといけなかったし、その孤独と開拓精神が彼の創作の根源とも言えよう。

レオニーはその後も娘を養いながらアメリカで暮らしたが、ずっと暮らしはままならなかった。イサムが彫刻などで名が売れるようになってからも、レオニーは彼に金の無心などをすることは一切なかった。唯一泣き言のようなことを手紙に書いたのは、大恐慌の折、「自分の母親がどういうふうにして、棚の上で寝るかを見にくる気はありませんか」(1932.7.9)との手紙である。体調が悪くなっても医者にかからなかったレオニーは、その翌年の12月に支払い能力がないものには無料の慈善病院であるベルヴュー病院に担ぎこまれた。その2週間後彼女は息を引き取った(享年59歳)。

 

イサムは母親の死を予感したのか、彼女が亡くなる前年、母親をモデルにしたテラコッタの頭像を作成している。「息子が刻んだ母親のおもかげには、時代の規格に外れても、自分の選んだ人生を歩んだ女性の自尊心と品格も写しとられていた」とドウス昌代氏が述べている通りである。彼女はイサムが世界に名を残す彫刻家として大成したという意味において、とても幸せな母親であったと言えるだろう。イサムは、「ぼくは、母の想像力の落とし子なのかもしれない」と述懐している。彼女はイサムにアーティストになることを望み、その才能を開花させるべく日本文化を浴びせ教育にも余念がなかった。

イサムが一時期医者になろうとしたとき、その道を示した恩人に激怒したと言われるほど彼女のビジョンは明確であった。彼女の精神は、イサムの創作の源流とも言えるほど明白である。私生児を育て、自己憐憫に浸ることなく生涯を終えた彼女の生き方は、イサムにも継承されている。

 

写真協力  イサム・ノグチ庭園美術館

 

そして、ある物質の塊から形を削ぎ落としていく彫刻という作業には、彼の潔い魂が感じられるようである。彼が晩年にロダンのような頭像を作っていた時間を後悔しているが、粘土や石膏で何かを足すのではなく、石のように割れやすくコントロールしにくいものに挑み、本質を立ち上がらせるべく削っていく作業が彼の生き様そのものを表しているようでもある。

さらに特筆すべきは、晩年には作業工程さえも最小限となり、その石が本来持つ個性のようなものが浮かび上がるように石そのものの姿をなるべく残す制作様式になっていったことである。

イサムの人生をかけた芸術の道筋は、自分の出自や国籍などに不条理に翻弄されながらも、芸術という母が与えた灯火にしがみついて孤独に道を開拓し、心の境界線をいくつも越境できた先に本当の自分に出会えた心の旅路のようでもある。そんな彼のシンプルで無駄のない作品に、われわれもまた勇気を与えられるのであろう。

 

 

 

(つづく)

 

 

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年

 

 

 

 

文 中村 晃士