その2

母、レオニー(前編)

 

そもそもイサム・ノグチの父、野口米次郎(アメリカ文学会では、ヨネ・ノグチとして知られる)は詩人として名を上げるためアメリカに渡りおおよそ無鉄砲に詩を書いていたが、渡米8年を経過した頃自分の詩を英訳してくれる人を新聞広告で募った。そこに、母(イサムの祖母に当たる)の持病の手術代を捻出するため応募してきたのがイサムの母レオニー・ギルモアであった。

英語が貧弱であった米次郎から頼りにされたレオニーは、彼の詩を翻訳するのみではなく英文学として昇華させる役割までも担ったのであった。そうこうするうちに、「レオニー・ギルモアが、私の法律上の妻であることをここに宣言します」(1903.11.8)という米次郎の手書きが残されているように二人の関係は深まったが、その一方で移り気な米次郎は、ワシントン・ポスト紙文芸記者エセル・アームズとも既に恋愛関係にあった。結局その後米次郎はエセルとの関係に入れあげ、最終的には米次郎がロンドン、アメリカ文壇での名声を足掛かりに満を辞して1904年に日本へ帰国する際にもエセルを連れて行こうとしたほどであった(エセルが渡日を拒否し、二人の関係は終了した)。

米次郎が日本に向けて旅立った3ヶ月後、かたやレオニーは移住先のロサンゼルスでイサムを出産した。ロサンゼルス郡立病院でレオニーは「ミセス・ヨネ・ノグチ」と自らを名乗り、新聞記者の知るところとなり『ヨネ・ノグチの赤ん坊、病院の誇りー白人妻、作家の夫に息子をプレゼントー』と世間を騒がせた。レオニーは当時友人に宛てた手紙で「彼に二度と会えない気がします」と書き、夫との別離の予感を受け入れていたようではあるが、同時期のカリフォルニア州では他の州と同様に、「白人と有色人種の混婚」が禁止されていた背景があった。それを鑑みると、この出産が違法とされた時代に生まれてくる我が子の身を案じ、レオニーが誕生に際してせめてもの贈り物として米次郎の名を添えたのであろうか。イサム・ノグチは自身の出自について「ぼくは待ち望まれて生まれたのではない。父母にとっては、不便このうえないお荷物だった」と述懐している。

米次郎は日本への帰国を機にエセルと破談になったため、今度は都合よくアメリカとの仕事の交渉窓口をレオニーに依頼し、「君は日本に来てください。(中略)赤ん坊に“父なし子”の烙印を背負わさずにすむ」と書いてきたりした。当初レオニーはアメリカでイサムの養育を希望していたものの、日露戦争に絡んだ米国内での反日感情の悪化の勢いに押され日本行きを決意し、イサムが2歳4ヶ月の頃二人は初めて日本の地を踏んだ。

そしてそれまで名前をつけられていなかったイサムは、この時に初めて父・米次郎に『勇』と名付けられた。米次郎は遅まきながらも日米の二国を背負う我が子に<勇ましく生きよ>と願ったと思われる。しかしまたしても無責任な米次郎は二人の来日時、既にまつ子という日本女性との間に子供をもうけており、結果としてイサムを長男としては認めなかった。そのため、生涯イサムは日本国籍を得ることができず、レオニーの私生児として生きたのであった。

 

 

レオニーは夫からの経済的な援助はほぼなく、日本で英語教師として生計を立てた。イサムは日本にいる間も「父親がいた生活というものは、まったく記憶にない」とつづっている。しかしレオニーは、詩人の父親、私生児、混血としての息子がこの世界で生き延びていくためイサムをアーティストにしたいと思い入れたのであろう。その母の思いに共鳴するかのようにイサムも芸術的才能を発揮し、5歳のときにイサムが森村学園で描いたクレヨン画「イバラギ県の月光」、6歳のときに粘土で作った「波」にレオニーは感嘆し、息子をアーティストとして育てる気持ちをより一層強めたと言われている。

男に依存しない独立心と、誇り高い理性を崩さないレオニーの生き方は、イサムにも大きく影響している。茅ヶ崎で暮らしている間、差別用語である「アイノコ」と呼ばれ、友達は一人もできず、田んぼに突き落とされたり、麦わらの山に頭を突っ込まれたりしてもイサムは母に甘えることもなかったが、一人で母の帰りを待ち帰ってきた母に本を読んでくれとせがんだ。その時間だけが彼の砦であった。レオニーも彼のためにと、小学校に入ったばかりのイサムに、アンクル・リーマス、イザベラ・グレゴリー、チョーサーなどの自分が愛好する文学を読んで聞かせた。不遇な中、不器用ながらも強い信頼関係で結ばれた母子であったが、イサムが7歳の時に母・レオニーが起こした衝撃的な出来事によりその関係は一変する。それはレオニーが数日間の留守ののち帰宅した手に、赤ん坊がいたという出来事であった。(この赤ん坊はイサムの妹アイリスであり、レオニーは生涯この子の父親の名を明かしていない)。イサムは「母との静かな世界が、この日をかぎりにひっくり返った」と述べている。

日本人らしい芸術性を育んで欲しいと強く願っていたレオニーの教育方針に反抗したイサムは登校を拒否し、母に「アメリカ人として教育を受けたい」と申し出、インターナショナルスクールであるセント・ジョセフ校に転校した。そこでは「イサム・ギルモア」と名乗り、野口勇の受難から解放されたに思われたが、そこでもイサムは「アジア人の目には十分に黄色ではなく、白人の目に合格するには十分に白くない」と、出生の二重性への偏見からよく取っ組み合いの喧嘩をした。イサムはどこに行っても馴染めなかったのである。

 

(つづく)

 

 

Reference

ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年.

四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.

 

 

 

 

 

 

 

 

文 中村 晃士