第2章 オッチャンと志保さん

 

(第1章 色のすること、家族。のつづきです)

 

植田志保(以下、U):オッチャンという人が家に住んでいて。オッチャンはおじいちゃんの実のお兄さんなんですけど、なんだったんだろう。今でもわからないですけど、喋ったりとか、社会的なことができない人だった。それとさらにひいおばあちゃんとも暮らしてて。

 

TOMOWA(以下、T):いろんな大人がいっしょに暮らしてたんですね。

 

U:オッチャンは大人なんだけど、正直で、子供みたいな人だった。私は小さい頃、少しずつ言葉を仕入れていくのに、おっちゃんはずっと喋れなかった。ちょっとした時間には、私はオッチャンと一緒にいる時間が多かった。下の弟は、オッチャンの説明を家族から受けたことがなくて、みんなにオッチャンと呼ばれてるのもあって、ずっと近所のおっちゃんが家に間借りしてるんだと思ってたくらいで……。

 

T:(笑)

 

U:私、家のリビングでずっとオッチャンのそばにいたんです。オッチャンが表情でいろんなことを伝えてくれるのを受け取ってた。

 

T:言葉にしない会話をずっとしてたんですね。

 

U:はい。言うのは、「ええがな」と「あかん」だけだったかな。ほかは何も喋らない。私が何をしてもだいたい「ええがな」だった。

 

T:(笑)。そういう言葉にならないやりとりをし続けることは、なんだかイメージを絵にするという志保さんの、美術作家としての方法と結びついているようで、オッチャンの影響は志保さんの創作には大きいかもね。

 

U:はい。今思うとですけどね。今の自分に何が幸いだったのかはわからない。けど、オッチャンは存在として不思議な人だったのはたしかですね。

 

T:話を元に戻しますが、志保ちゃんはお母さんにパレットをもらって何を描いてたんですか?

 

U:もちろん色を塗るというのがすごい楽しくて、永遠にやってたけど、すごく描いてたのはお姫様とか。漫画とかを見て。

 

T:どんな漫画?

 

U:毎月、りぼんとか買ってた。あと弟たちの漫画もいっぱいあったし、ドラえもんとか。だから、人間描いてましたね。

 

T:へー。それはそのまま? 忠実に?

 

U:うん、写実してました。あとは風景画とかもいっぱい描いてた。近所の風景。

 

T:思い出す風景とか、よく描いていた風景とかってありますか? 原風景とでもいうのかな。

 

U:田舎の原風景は今も無くなっていなくて、そこに存在している。アップデートしながらも、でもなんか家から見た山とか、井戸があったこととか、にわとりを飼ってたとか。家と基地の往復だった。基地はもう無くなったけど。

 

T:もう無いんだ。

 

U:基地も蔵も建て替えて新しくなってる。

 

T:前に中学時代に描いた絵がありましたね。校庭に雨が降って、そこに光が反射してっていう写実的な絵。

 

U:小学校で美術の教科書をもらって、これを描いてみましょうみたいなお題をもらうじゃないですか。それに反応して描いたのがあれでした。風景画を描きましょうという写生大会があって描いたんですよ。それで美術の成績は毎回すごくよかったです。なので、あ、わたし美術得意なのかなってそれが表彰されて新聞に載ったりしてた。あ、いいって言われてるって。

 

T:あのころに、同時に抽象的な絵も描いてましたね。

 

U:あれは自分で描いてました。

 

T:自然に?

 

U:そう。

 

T:植田さんのその頃には、描きたいから描いてるってだけで、抽象的とか写実的とかそんなに区別はなさそうですね。

 

U:はい。今も勝手にそう周りに勝手に言われているだけで、本人としては別に……。なんでそこが大事なのって思っちゃう。

 

T:でもああいう抽象的なものって、教わらずに出てきたとするとすごいことだなって思うんですが。何か体験したことから生まれてきたのですか?

 

U:それこそ、オッチャンとかを描いていたのかなと思う。いつも近くにいて、不思議、みたいな。でもちょっと魅力的だから描いちゃおみたいな。

 

T:オッチャンを描いてたの?

 

 

U:オッチャンそのものじゃない。わからないものに対する恐怖みたいな……。不安だけど頭にはあるものなんかを「こうかも……」と感じながら描く。

 

T:言葉でも説明できない、有り余る気持ちなんかを描いてたんですね。

 

U:ほんとに自分が美術の道に進むなんて思ってなかった。絵が好きだから、絵本作家になりたいなとか、お母さんみたいなことができたらいいなとか、ぽやんと思ってただけ。おじいちゃんには、わたしにアナウンサーになってもらいたかったみたいで、私が通ってた高校にアナウンス部があって、そこにはアナウンサーになる人も多かったから、志保ちゃんにもアナウンサーになってほしいって言われてて。だからお勉強しなきゃみたいな気持ちは強かった。優秀ではなかったけど、頑張ってました(笑)。

 

T:へー。絵を描くことで生きていこうと思ったのはどんなタイミングだったんだろう?

 

U:絵を描きたいというか、私にまとわりついているのは、“色のすること”だから、“色のすること”のためにはどうしたらいいかと常々考えていて、アナウンスすることが色のすることになるのかというふうに、一個一個外部から与えられる選択肢をそれに当てはめていった。これは色のすることに近いかな、どうかなって。自分がどうすることが色のすることになるのかをずっと考えてた。いる人のことを無視して生きていけない感じ。“色のすること”がある自分はどうしたらいいんだろうって。それをこの道順で行けるのかみたいなことをずっと自問自答してて……。進学校に行ったんですけど、めちゃめちゃ勉強したわけじゃないし。でも自分の住んでた山から2時間半かけて高校に通っていた。そこは拓けていて、いろんな人と出会えました。

 

T:えっ、片道? 2時間半?

 

U:そう。朝、5時50分のバスに乗って……。

 

T:高校3年間?

 

U:弟もそうでした。

 

T:へー。

 

U:そこですんごい楽しかったんですよ。いろんな人に出会えて、先輩もいたし。それで自分はどういう風になりたいんだとか、人をずっと観察してた。あとお洋服もすごく好きで、表現したいというか。この色とこの色が好き、みたいな。そういう組み合わせを編み出すことに尽力してた。その頃もブランド物には一切興味がなく、ヴィンテージのお店を探して、このたまらない色、このたまらない形を掘り出して、自分で作ったりするのも楽しかった。

 

T:縫ったりもしてたの?

 

U:縫ったりはできなかったから、「ここ縫って」っておばあちゃんにお願いしてました(笑)。

 

T:高校時代もずっと絵は描いてたの?

 

U:やってました。誰に見せるわけでもないけど、画用紙に水彩で描いてましたね。高校時代にお題があって、散文みたいなのを書かされて。それで“色のすること”について書いたんですよ。そしたら先生に呼び出されて。「あなたは自律神経失調症だから、病院に行った方がいい」って。

 

T:(笑)

 

U:それで、ガーンってなって(笑)。えっ、ちょっと待って、自律神経失調症? ちょっと調べます!みたいな。それで、いい先生だったけど、私、高校のときちょっと派手な感じで注意されてたりもしてたんですけど、そのときはさすがにビシッとなりましたね。あれ?本当に自律神経失調症なんだろうかって、悩みましたね。家に帰って、もう一度考えて。一側面から急に自律神経失調症とか言われて、本当にそうなのかなって、色々調べました。そこから、進路をちょうど決める時期で、指定校推薦とかあったんですけど、これは違う!って直感ですぐに思って……。美術の成績ならどこかに行けるかもって頭が働いて。

 

T:ふむふむ。

 

U:調べたら芸大とかいっぱいあって。調べて一人で電車を乗り継いで、京都造形大学に行ったんですよ。当時は、“色のすること”は空間にあると思ってたんですね。それで「空間に行かねば」と思って。

 

T:なるほど。それで京都造形大学の空間演出デザイン学科なんだ。

 

U:とにかくそこのオープンキャンパスに行かねば!と思って、大量の絵を持って行ったんです。

 

T:今まで好きで描いてた絵を持ってたのね。

 

U:初めての京都へひとり旅みたいな感じでした。それで持って行ったら、大野木先生という先生が出てきてくれて、「どうしたんだ?」みたいな感じで、「迷子か?」みたいな感じで、「大丈夫か?」って。

 

T:そうなるよね(笑)。この子、ほっといていいのかって(笑)

 

U:それでお話を4時間とか、5時間とか聞いてくれたんですよ。自分にはこういう世界があって、こういう感じで絵を描いてって忠実に話したんですよ。そしたら、まずその先生が私の話を聞いてくれたて、そのことにすごく感動して。

 

T:自律神経失調症とか言わずにね(笑)。

 

U:ちゃんと聞いてくれて。私が遠慮しがちに書いた作文より、もっと解放してしゃべってるのに、うんうんっていっぱい肯定してくれて。私、むちゃむちゃ感動して泣いたんですよ。ほんとに、わーって気持ちになって……。それで先生が「この大学においでなさい。あなた次第だけれども」って言ってくださって。受け入れてくださるような発言をしてくださって、本当に嬉しかった。

 

T:うんうん。

 

 

U:お父さんもお母さんも美術の方面、芸大に行かすつもりとかも更々無かったので、そこは親の意向は無視でした。自分で願書取り寄せて、絶対ここに行く、行かねばならぬって。それで推薦を受けて、試験を受ける前に、デッサンをしないといけないことがわかって。それで推薦を受ける間際に、デッサンを習うところに駆け込みで入って(笑)。そこは受かってからも通いましたね。そこは熊を描きなさいとかあって、そのとき熊を一番魅力的に描くには真正面だ!と思って描いてたら、それは構図として間違ってるって。

 

T:注意を受けたのね(笑)。

 

U:(笑)。それでもなんとかやって、芸大に入って行った。でも、それからも大変だった。

 

T:家族は、志保さんの美的な感覚って大学に入った後も認めてくれるって感じにはならなかったの? 受験の時は家族と志保ちゃんの間に美術に関して温度差があったみたいだけど。

 

U:大学に入ったら応援してくれました、、、本当に。京都造形大学に入って、京都に引っ越しをし、一人暮らし。お父さんが兵庫から来てくれて、ベッドを組み立ててくれたり。私が部屋の床が気に入らない、気に入らなすぎてどうしたらいいの! って私が騒いでたら、お父さんからメールが来て、「週末、そちらに行きます」って(笑)。こういう木のやつにしたいって言ったら、お父さんそんな仕事でもないしやったこともないのに、一緒にホームセンター行ってくれて。それで床材を買って来て、のこぎりで全部切ってくれて。

 

T:めちゃくちゃ応援してる!

 

U:この子が何をやろうとしているかはわからないけど、その瞬間瞬間では応援してくれてるみたいな。

 

T:そうだねー。わからないなりに一生懸命寄り添って、応援はしてくれてたんだね。

 

U:はい。

 

T:家族には、志保さんのやりたいことは「色のすること」なんだって説明はしてたの?

 

U:言葉ではちゃんとできていないかも。でも自分の中では、それをせねば!と。他に選択肢がなかった。

 

T:家族が植田さんのしたいことを知ったときはどんな反応だったのだろう?

 

U:きょとん(笑)。そっかーって。でも誰も有無を言わせないくらい、それ以外のことをやるなら死んでしまうくらいだったんだと思います、、、。

 

T:そこで初めて、察しのいい子、周りが提供してくれているものから、反抗というか自立をしたんだね。そうすると「色のすること」という概念は、今はワークになってるけど、一貫はしてるんですね、昔から。

 

U:色がいる! それがどうしようもないことなので。それを表現してく過程、自分のやっていることが作品となっていることとか、人に伝えられなさとか、いろんな摩擦とか……。今思えば、10代はよく生きてたなって。人によく誤解もされてた。あまりに伝わってなかった。

 

T:こちらで質問を用意してて、「いつから絵で生きていこう、職業にしていこうと思ったのですか」って聞こうと思ったけど、あまり意味がないね(笑)。

 

U:まだ、絵なのかっていうのも。

 

T:そうですね。

 

U:まだ不確か。でもそういう、ひかってひかってみたいなものを作品として出すと、誰かが喜んでいてくれて。それが原動力。あまり自分のためには頑張れないけど、人のためには頑張れる。今のウイロードもそうですけど。誰から喜んでくれるからすごく頑張れる。

 

T:結果として創作活動として生活できている。成り立たせようとしているのではなくてね。なるほど。

 

U:食べていくというのと逆で、そこにあるから営みとしてやってしまうというか。営みの繰り返しで作品になっていって。それが仕事になった瞬間にすごく考えたんです。本当にこれはどういうことなんだろうって。それってすごい責任があることだなって思って。その理由を突き詰めないといけないと思った時期が何年かごとにやってきて。自分の制作の方が先に行ってるから、その意味や理由ってあとあと自分が追いかけて理解するような感じでした。なんだかわからないけど、これを作ってしまったみたいな。なんで命がけであんなものを制作してたんだろうって、意味を考えたり。それは後から自分が追いかけてその意味を知る、みたいな感じでした。これが何で仕事になるのだろうかって考えたときに、自分がわかったのは継承されている何かがあるんだろうっていうのが一つあって。それって自分が生まれて何年かとかの出来事ではなくって、ご先祖様とか先祖代々があって自分に今託されているものがあるって感じてて。これが仕事になっているのは、自分の行いを良しとしてくださった人がいるから成り立っている。それはすごいこと。そういう自分の色と世の中が交錯するあんばいを考えてきた。食べていけていることについて、その行き先と世に出すもの一つ一つを責任を持って見極めていかねばならぬと。どんどん後から自分の作品を作る心構えとか、強度とか。

 

T:なるほど。

 

(第3章へつづく)