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A r c h i v e

その7 彫刻家、イサム・ノグチ(後編) 彼はただの彫刻家ではなく、哲学者のようでもある。おそらく彼はそれを否定し、自分は彫刻家だと反論するであろうが。イサムは彫刻を通して、世の中の真理を追求した。アートが、美が、人間にとってどういう意味があるのか、またどうあるべきかを考えていた。彼のエッセイを読むと、彼がいかに物事の本質をとらえようとしていたかがわかる。 彼曰く、「彫刻はぼくにとって容易に理解できない空隙と圧力に対する執着、空間の句読点になる。彫刻が岩なら、それはまた岩と岩とのあいだ、岩と人間の間の空間でもあり、それらのあいだのコミュニケーションと見つめあいである」と。いつも彫刻をしながら、思索をめぐらし、物との対話を通じて彼がたどりついた真理はとても研ぎ澄まされ洗練され、かつシンプルでもあり、アメリカ人らしくもある。 彼は彫刻家として大きくなっていく中で、そのやり方は試行錯誤を繰り返した。素材も変化し、小さいものから大きなものまで、あらゆるものにチャレンジしながら独自のやり方に至っている。彫刻を始めた当初、粘土で胸像を作っていたが、のちにそれが愚行であったと後悔もしている。粘土のような媒体では何でもできてしまうし、それは危険だとも話している。彼の彫刻のスタイルは師であるブランクーシにも似て、完璧主義でもあり、ものの材質の本質を見極め、職人のような技術で無駄なものを削ぎ落とし、語りを浮かび上がらせるというものであった。そして最後には石そのものを削るが、ほとんど素のままの形を残すスタイルになっていった。 香川にあるイサムノグチ 庭園美術館の庭に並べられた石たちを見てほしい。彼がどれほどまでにその石たちを思い、それを削り、並べたかがわかるだろう。今も生前に彼が並べたとおりに石たちは配置されている。その向き、場所、間隔、空間。すべてが彼の心の箱庭である。細長く地面に立てられた石は、人に見立てているという人もいる。龍安寺の石庭のようでもあるとも言われる。彼は自分の心に素直に従い、それを形にしていった。彼の作品はその大きさも特徴的である。彼が「大地を彫刻するという発想が好きだ」と述べたように、丘をデザインしたエルサレムの彫刻庭園のように、大きな仕事をするのも好きであった。あるアルミの会社からデザインを頼まれたときには、2マイルのアルミの造形物をデザインしたらしい(これは却下された)。いつか人類は、月から地球を見たときに見えるような彫刻を作るときがくるかもしれないとイサムは言っている。どこまでも大きなスケールの大きな視点で彫刻をしていたかがわからエピソードでもある。もしかするとこの背景にあるのは、彼の孤独やそれを乗り越えたときに至った彼の心境なのではないかと思う。家族愛に恵まれなかったイサムにとって、大地、地球、宇宙という規模に自分の心を開くことにより、ようやく彼の心に安らぎが訪れたのではないかと想像するのである。 話は変わるが、彼は思索を続ける中で、アーティストの役割を、後世に芸術の伝統を伝えるという特別な義務がある——想像力を通して真理を深く求め、その光を人々の心の暗闇に投げかけるために——と言っている。さらには、完全な芸術家とは「みずからの芸術がさらに含意するものの探究に身を捧げる芸術家だ」としている。彼はその言葉のとおり、彫刻をしながら、人間の真理に近づこうとしていた。「ある意味でぼくは、人は自分自身を失えば失うほどますます自分自身になるのだと感じている」とも言っている。この禅問答のようなことばを本当に理解できるのは数少ない芸術家や哲学者の特権なのかもしれない。 アイデンティティや両親との関係性を心の中に抱えながらも、彫刻家として大きな仕事を成し遂げることができたのは、彼が自分の心に忠実に思索を続け、それを自らの得意な彫刻という形で表現し続けたからだろうと思われる。母の思うように生きたと彼は言ったが、ここまでの人になろうとは母レオニーも思ってはいなかったのではなかろうか。 最後にイサムの言葉を引用して終わりたい。 「余暇の楽しみがよき生活の尺度となる時代がくるだろう」。人がアートを見つめるとき、そこに自分を見出し、自分と向き合う。ゆっくりとした時間が流れ、以前と少しばかり成長した自分に出会う。そんな楽しみ方ができる世の中がいずれ来るのかもしれない。 Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年. 公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年 文 中村 晃士

その6 彫刻家、イサム・ノグチ(前編) イサムは自分の人生を振り返って、「母が思うような人生を送った」と述べている。イサムは5歳のときに幼稚園で、波の彫刻を作った。この出来栄えは幼稚園でも話題となり、母レオニーがイサムをアーティストに育てようと思ったきっかけとなった。レオニーが見出した美やアートへのイサムの親和性を生かし、彼は周囲のすすめに従って医者になることもなく、彫刻家として大成したのであった。そういう意味で、混血児としてのイサムがこの世の中でどうしたら生きていけるかをレオニーは見抜いていたと言える。 しかしその母に対してでさえ、見捨てられたという気持ちを抱いていたのは、第2、3回の項で述べたとおりである。また父に対する両価的な感情についても第4、5回で触れたが、両親との関係性も複雑なまま彫刻家となり、その原体験が創作活動に大きな影響を与えている。彼の中の寂しさや孤独、その感覚を乗り越えた時の発想のスケールの大きさはここにあるのではないかと筆者は考えているが、これは後述することにする。 彼が世の中に認められていく中で、大きな障壁となったのが日系二世という血である。父の項でも触れたように、父米次郎が体験したように、イサムはアメリカ人にしては東洋人らしく、日本人にしてはアメリカ人らしかったのである。日本とアメリカの狭間でイサムはとても苦しむこととなった。アメリカ美術界では、日系人だからと揶揄され、その作品や企画が認められなかったり、逆に日本では1952年には原爆慰霊碑を数ヶ月かけてデザインしたが、アメリカン人の血が入っていると拒絶されたりもした。 こうした両親との関係、日米の狭間に置かれたイサムの体験は、その後の彼の作品にも大きく影響していく。子どもたちが楽しめる空間をと公園をたくさん手掛けたりしたのもそうである。日本の自然の中で過ごした幼少期の思い出が未来ある子どもたちの遊び場を作る原動力になっていたのではなかろうか。またアートの中でも彫刻というもの、さらには石を用いて作ることにより、自分の作品が長きに渡り、この地球に残っていく姿に親和していったこともそうであろう。そして彼の祖国はアメリカでもなく、日本でもなく、地球だったのである。地球を彫刻するというのが彼の仕事であった。 イサムの一つの側面としてよく取り沙汰されるのはその女性遍歴である。メキシコ人画家ディエゴ・リベラの妻であり、本人も芸術家として有名なフリーダ・カーロ、インド独立の父ネルー首相の姪であったナヤンタラ、国際女優山口淑子(生涯で唯一伴侶とした)など、名だたる相手と生涯を通して恋に落ちている。彼が両親から捨てられたような心持ちで生涯を過ごしたのは前述のとおりである。彼は女性関係に無頓着な父親に振り回されているが、イサム自身もその血を大いに受け継いでいるとも言える。アートを生み出す原動力として女性と付き合っていた見方もあるが、いずれにしても両親に対する両価的な感情を抱きながらも、それを解消することはできなかったのは彼の女性遍歴をみれば明らかであろう。イサムと作品たちと女性たち。切っても切り離せない関係がそこにはある。 (つづく) Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年. 公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年 文 中村 晃士

その5 父、米次郎(後編) さて、イサムは20代から30代にかけてアメリカ人の彫刻家として名を成していくが、第二次大戦の前後であったこともありそのアイデンティティは日米の国家間を彷徨い、またそれに引き摺られて実父米次郎との関係は相変わらず残酷なものであった。日本国内外を問わず積極的に日本の国家としての振る舞いを宣伝・弁護して回ったりしていた米次郎を引き合いに出し、イサムと米次郎との父子の関係を政治的に利用しようとするものさえいた。 当時イサムは、他のニューヨーク在住の日本人芸術家と同じく日本批判を行っており、そのためニューヨーク在住の日本人コミュニティにおいて「日本の愛国詩人、野口米次郎の豚児」と冷笑されていた。まず、そこに目をつけた日本政府が接近し、イサムに対し父を見習って日本の味方になるよう迫ったが、固辞した。そしてそれだけでなく、後にアメリカからもイサムに接触があり、父米次郎の繰り広げる国際的な扇動的振る舞いに対しイサムが公開状を書くよう打診があった。結局、こちらも在米していた中国人の学者の説得により辞退したが、イサムは父親を「国家主義の唱導者」と呼び、民主主義の敵と名指しした。 一方で、日系人がアメリカ国内で捕虜として収容された際には、イサムはその収容所に出向き自ら収容されるよう願い出るという行動を起こした。そのことから、イサムは日系二世としてのアイデンティティを模索しながら、両国の政治的な思惑をかいくぐりつつ、日本人の血を引くアメリカ人として日本人である父と対峙していた。 しかしながら父子関係の終焉は驚くべきものだった。 日本が敗戦から一年たち、イサムはジャパンタイムス誌に一つの記事を寄稿した。それは、日本は戦後、武器ではなく、持ち前の本能的ともいえる優れた美的感覚、文化によって復興できるという励ましの書であり、それに米次郎が胸を打たれたと返書を出し、二人の交流は生まれて初めて温かいものとなった。父の身を案じたイサムは、通信社を通じて父の安否を確かめたという。そしてその居場所がわかると、健気にも彼の元に生活に必要なものを送り続けたが、実はその頃すでに父親は病に侵され、そのわずか2ヶ月後には亡くなってしまうのであった。 イサムの父親に対する痛いほどの愛の渇望、および実際の父親に対する嫌悪感の二つの感情によって成り立つ両価性は、作品作りのエネルギーとなっている。彼が父親を拒否したり批判したりしながらも、父親譲りの猪突猛進なやり方、日米の間で苦悩したことは奇しくも父と同じ道をなぞっているように見える。 しかしながら、野口米次郎とイサム・ノグチの最も異なる点を挙げるとすれば、それは芸術家としてのアイデンティティの確立の仕方であろう。戦前に詩人として名を上げるという目的で渡米をしたかと思えば、第二次大戦では愛国詩人と呼称されるほど国内外で扇動的な活動を繰り広げたりするなど、国という大樹の陰に寄り添った米次郎に対し、イサムは日本人の米次郎とアメリカ人のレオニーの間に生まれ、その出生から芸術家として世界的に名を馳せたのちも、アメリカにおいても日本においても、常に国家や文化の間での摩擦を体験してきた。イサムの人生を貫いた葛藤はやがて、まるで父米次郎に対する花向けの言葉のようなあの、戦後日本を文化で復興させよと力強いメッセージを寄稿できるほどに、イサムを偉大な芸術家たらしめた。 (つづく) Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年. 公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年 文 中村 晃士

その4 父、米次郎(前編) 前述の通り、イサム・ノグチの父は詩人で女性関係では奔放であり、特に中年頃までは行き当たりばったりの人生を送った。 レオニーの項でも書いたが、米次郎は息子の誕生と命名を請う手紙がレオニーから送られてもそれに応えることはなかった。そのせいもあってイサムは、2歳4ヶ月の時にようやくレオニーと来日し米次郎から勇(イサム)と名を与えられるまで、ヨセミテという地名からとった「ヨー」と呼ばれていた。 米次郎は日本についた我が息子と対面して、「男とはなんと自己本位なものか」と後悔の言葉を口にしているが、それも長くは続かなかった。女中まつ子との間にも子供を授かり(まつ子は長女一二三を頭に、米次郎との間に9人の子供を設けている)、レオニーとまつ子の家庭との二重生活を続けた。さらにはまつ子を含めた家族は籍を入れたが、レオニー、イサムは生涯戸籍に入れず、イサムはずっと私生児のままであった。ほどなくして米次郎は慶応大学の教鞭をとりながら、それ以外の日には詩の執筆を理由に鎌倉の家にこもるようになり、徐々にイサムとレオニーの家庭とは距離をとるようになった。幼少期に日本に滞在していたにも関わらず『父親がいた生活というものは、まったく記憶にない』とイサムが後年に述べている通りである。 このような米次郎の振る舞いがイサムの根源的なアイデンティティに影響したことは言うまでもないが、イサムがそれに対してどのように精神的に対峙していったかを想像する時、胸が苦しくなるのは私だけではないだろう。 その後イサムが日本の学校に馴染めなかったこともレオニーの項で書いた通りであるが、実はイサムが横浜港から旅立つ日、米次郎が駆けつけた。イサムの渡米に突如反対をし、「養子として入籍する」と言い出したのだ。背景にはまつ子との間に生まれた長男春雄が6歳で急死したことがあったと推察されるが、結局、米次郎の「お前は日本に残れ」という言葉に、イサムは「No!」と言い残してアメリカに渡って行ったのである。自分を極限まで追い込んだ戸籍の問題すら、いざイサムが離れるとなったら身勝手にも意見を変える父親の姿は、イサムにどのように映ったのだろうか。 米次郎との関係で苦しんだイサムがアメリカに渡ってから出会ったのは、インターラーケン校創立者ドック・ラムリーである。彼はイサムに銀行の通帳を作ることから、アメリカ人としてどう生きるかの全てを教育したという。ラムリーはイサムを自宅に引き取り、部屋を与え、自分の子供たちと同じように育てた。そのおかげで日本では見向きもしなかった勉学に励むようになり、優秀な成績を収めるようにまでなったのである。そして、ラムリーの勧めで医学部に進んだイサムであったが、母親の反対、野口英世の「医者になるな」という助言、さらには自分のアイデンティティの見つめ直しにより結局医学を辞め芸術家としての道を歩み始めるのであった。しかし、イサムの力を信じて献身的に叱咤激励を続け、彼の勤勉さを引き出したのは間違いなくラムリーであり、まさにイサムにとっての父親代わりであった。 ラムリーの期待した道から逸れたイサムであったが、その後芸術の道でもう一人の父親代わりが現れる。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシである。 アメリカで彫刻家になると決めたイサムがフランスに渡ったのが23歳の時であったが、父親米次郎が詩人ミラーの家に押しかけたことを知ってか知らずか、イサムもまたブランクーシのアトリエに押しかけ助手生活を送った。やると決めたからには愚直なまでに行動に移し、相手もその熱意と人柄に動かされてしまうのは米次郎とイサムの共通点である。 イサムはブランクーシが木靴を履いていると、それを真似して木靴を履いて街中を闊歩するなど、健気に良い男性のロールモデルを求める姿がここにも垣間見えた。イサムが彼の助手でアトリエに出入りできたのはわずかに7ヶ月のそれも午前中だけという短い期間であったが、ブランクーシの物の真髄を見極め、素材の真の姿を掘り起こすという職人気質に日本人のそれを見ていた。イサムはその後の彫刻家としてのインタビューで度々彼からの影響や言葉を引用しており、彫刻家としての彼にとって父親/良いロールモデルであったと思われる。 (つづく) Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年. 公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年 文 中村 晃士

▪️ Tour of  WEROAD   episode 38▪️ <完成記念式典> 寒さが募るこの冬、令和元年12月1日に、豊島区民センターにてウイ・ロード再生事業の完成記念式典が行われました。 高野区長はじめ豊島区役所職員の皆さま、今回の再生事業に尽力された区民の皆さまからお祝いの言葉や独自の視点でのエピソードなどが語られ、またTour of WEROADの記事を書いてきたminayuzawaも植田さんの活動を間近でみる者として思いを述べることができました。 式の半ばには関係者のインタビュー映像も流され、ウイ・ロード再生の大きなチャレンジであった公開制作を行うことになった秘話が関係者へのインタビューも交えて明かされました。 始まりは一冊の本でした。植田志保さんが装画を担当した若松英輔さんの『言葉の羅針盤』です。 半世紀以上前から子供や女性に敬遠され暗く汚いイメージが長らく定着していたウイ・ロードを、誰もが安心して通ることができる場所に変えていくには、最新のデザインでイメージを一新するだけでは困難でした。そこで当初豊島区は、ウイ・ロードの壁を真新しく変え、そこに女性に親しまれやすく人気のある植田さんの既存の絵をデジタル化して壁に飾れば女性に親しみやすい雰囲気になるのではと思案していました。 しかし実際に植田さんが現場のウイ・ロードに足を運び歩んだ時に感じていたのは、この場所だけが持つ唯一の独特な存在感や、陰陽混合の混沌とした歴史や人をすべてありのまま受け止めてきたことの圧倒的な美しさでした。そして植田さんがウイ・ロードの存在意義・唯一の美しさを最も忠実に表現するには、実際に人が往来するウイ・ロードに留まり、そこで感じたものを壁画を公開制作するという手法が最も適していると考えました。 公開制作は豊島区の道路整備課ほか関係者の方々にとっては前代未聞の提案ではあったものの、植田さんの切なる美への思いは受け止められ、高野区長へのプレゼンテーションを経て、この壮大な計画が現実となりました。 植田さんの描画の力はさることながら、豊島区役所の方々、酒井建設の皆さま、そして区民の皆さまや毎日ウイ・ロードを通る方々の御協力があり、この再生事業は完成したのでした。これだけ多くの人々の気が込められた公共の事業は類を見ず、担当していた豊島区役所の方々の目が輝いていたのがとても印象的でした。 * ウイ・ロード内部のイメージは、77mある全長が5区画に分けられている構造に着目し、古代中国に端を発する自然哲学思想である五行思想になぞらえて、各区画を「木」「火」「土」「金」「水」のセクションに振り分けています。五行説は、この5つの要素が相互に関係し、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考えが基盤になっています。 −参照wikipedia五行思想より。 文 中村晃士 / minayuzawa

その3 母、レオニー(後編) 新しい学校でもうまく馴染めなかったイサムにレオニーが与えた役割は、新しく彼ら自身が住む三角の家の設計だった。 イサムはレオニーの完全なる共同設計者として、また現場監督として母親が驚くほど活躍した。その建築現場でイサムは大工たちの手元に目を奪われ、自分でも大工道具を集めた。茅ヶ崎の三角形の家から横浜までイサムは通い続けたが、とうとう10歳のとき学校には絶対に行かないと言い、レオニーは自分で教育することを決意した。勉強を教える母にイサムは人は早くから仕事につくべきだと主張し、造園家、園芸家になると宣言し、またそんなイサムにレオニーは鎌倉の寺の庭園を見せに連れ歩いては日本文化を教えた。イサムは三角形の家の庭を任され、それに呼応するようにバラや山から採ってきた山ツツジなどを育てた。しかし、レオニーによる自宅学習はそれ以外の部分では功を奏さず、困った彼女はイサムを大工修行へとやったり寮に入れたりとしたが、結局のところイサムを日本文化の中で日本人らしく育てるというレオニーの夢は叶わなかった。 そんな折、イサムが13歳の時に第一次大戦が勃発し、それが二人の関係を決定づける。大戦の勃発は、私生児であるにも関わらず日本人を父に持つイサムが、日本国に徴兵される可能性を示唆していた。母と息子の関係が不安定な中、レオニーはイサムの身を守るためイサムをアメリカ領事館に連れて行き、アメリカ市民権をとらせ、急いでアメリカの学校を手配して船で一人イサムを渡米させたのである。 家の外に行き場もなく、家の中でも反発してばかりだった孤独なイサムにとって、母から言い渡された突然のアメリカ行きは、母の裏切り、母に捨てられたと感じるのに十分な衝撃であった。資料としてアメリカに渡航する時のイサムのパスポート写真が残っているが、まだ幼くどこか不安げなイサムを見ることができる。 それでもレオニーはイサムが一番安全な形で、きちんとした教育を受けさせることに心を砕いたのだった。彼のアメリカでの学費も馬鹿にならなかったが、日本で英語の個人教師の仕事を増やすなどして送金を続けた。そのおかげで、イサムは紆余曲折を経て彫刻家へとなるわけであるが、13歳のイサムが受けた衝撃は強く、その数年後にレオニーがアイリスとともに渡米を果たしたのちも、彼が再びレオニーと距離を縮めることはなかった。イサムは父にも母にも捨てられたという心情を抱え、自分で自分の道は切り開かないといけなかったし、その孤独と開拓精神が彼の創作の根源とも言えよう。 レオニーはその後も娘を養いながらアメリカで暮らしたが、ずっと暮らしはままならなかった。イサムが彫刻などで名が売れるようになってからも、レオニーは彼に金の無心などをすることは一切なかった。唯一泣き言のようなことを手紙に書いたのは、大恐慌の折、「自分の母親がどういうふうにして、棚の上で寝るかを見にくる気はありませんか」(1932.7.9)との手紙である。体調が悪くなっても医者にかからなかったレオニーは、その翌年の12月に支払い能力がないものには無料の慈善病院であるベルヴュー病院に担ぎこまれた。その2週間後彼女は息を引き取った(享年59歳)。 イサムは母親の死を予感したのか、彼女が亡くなる前年、母親をモデルにしたテラコッタの頭像を作成している。「息子が刻んだ母親のおもかげには、時代の規格に外れても、自分の選んだ人生を歩んだ女性の自尊心と品格も写しとられていた」とドウス昌代氏が述べている通りである。彼女はイサムが世界に名を残す彫刻家として大成したという意味において、とても幸せな母親であったと言えるだろう。イサムは、「ぼくは、母の想像力の落とし子なのかもしれない」と述懐している。彼女はイサムにアーティストになることを望み、その才能を開花させるべく日本文化を浴びせ教育にも余念がなかった。 イサムが一時期医者になろうとしたとき、その道を示した恩人に激怒したと言われるほど彼女のビジョンは明確であった。彼女の精神は、イサムの創作の源流とも言えるほど明白である。私生児を育て、自己憐憫に浸ることなく生涯を終えた彼女の生き方は、イサムにも継承されている。 写真協力  イサム・ノグチ庭園美術館 そして、ある物質の塊から形を削ぎ落としていく彫刻という作業には、彼の潔い魂が感じられるようである。彼が晩年にロダンのような頭像を作っていた時間を後悔しているが、粘土や石膏で何かを足すのではなく、石のように割れやすくコントロールしにくいものに挑み、本質を立ち上がらせるべく削っていく作業が彼の生き様そのものを表しているようでもある。 さらに特筆すべきは、晩年には作業工程さえも最小限となり、その石が本来持つ個性のようなものが浮かび上がるように石そのものの姿をなるべく残す制作様式になっていったことである。 イサムの人生をかけた芸術の道筋は、自分の出自や国籍などに不条理に翻弄されながらも、芸術という母が与えた灯火にしがみついて孤独に道を開拓し、心の境界線をいくつも越境できた先に本当の自分に出会えた心の旅路のようでもある。そんな彼のシンプルで無駄のない作品に、われわれもまた勇気を与えられるのであろう。 (つづく) Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年. 公益財団法人イサム・ノグチ日本財団『ISAMU NOGUCHI イサム・ノグチ庭園美術館』求龍堂,2016年 文 中村 晃士

▪️ Tour of  WEROAD   episode 37▪️   冬の風が挟まれながら、秋が名残惜しいように長雨を降らせる池袋です。 Autumn rain with winter wind has kept falling as if it did not want to leave Ikebukuro these days.       西口側ゲートは、温かくて愛らしい描画と左官が施されていました。 It was done that heartwarming  plastered and painting at the west side gate.     最後の仕上げに入ったウイ・ロードの再生事業。ここ2週ほどで、床に接する傾斜したヘリの部分が徐々に壁に合った色彩を施され、その全長を網羅しました。このヘリ部分の描画は、床から継ぎ目なく空間全体に色が立ち上がってくるようなイメージを達成するため、植田さんがこだわりを持って仕上げた部分です。 The rebirth project of WEROAD has come to an end. The slanted edges at the bottom of the tunnel wall had been painted for 2 weeks and been completed finally. Ueda-san cared about this edge because she wanted to accomplish the image of colors risen up in whole the space without any gap from the floor(bottom) to the top of the wall.     そして、前回着手し始めだった西口側通路正面の大きな四角い壁面には、祝賀のように色の集合が。思わず息を呑むほど鮮やかで、そこが池袋の地下であることを忘れてしまいそうでした。全長77mの細く長いウイ・ロードに描かれた壁画は、日常の中のかすかな記憶や愛しい喜怒哀楽を刺激し、西口側正面の壁画は無重力で純粋なよろこびを運んできました。それは、掛け替えのない自分の日常と、その日常の気持ちを枯渇させないような特別な時間(非日常)とが隣りあっているようで、「ケ」と「ハレ」どちらも大切だと色が教えてくれたように感じられました。 And there appeared an

その2 母、レオニー(前編)   そもそもイサム・ノグチの父、野口米次郎(アメリカ文学会では、ヨネ・ノグチとして知られる)は詩人として名を上げるためアメリカに渡りおおよそ無鉄砲に詩を書いていたが、渡米8年を経過した頃自分の詩を英訳してくれる人を新聞広告で募った。そこに、母(イサムの祖母に当たる)の持病の手術代を捻出するため応募してきたのがイサムの母レオニー・ギルモアであった。 英語が貧弱であった米次郎から頼りにされたレオニーは、彼の詩を翻訳するのみではなく英文学として昇華させる役割までも担ったのであった。そうこうするうちに、「レオニー・ギルモアが、私の法律上の妻であることをここに宣言します」(1903.11.8)という米次郎の手書きが残されているように二人の関係は深まったが、その一方で移り気な米次郎は、ワシントン・ポスト紙文芸記者エセル・アームズとも既に恋愛関係にあった。結局その後米次郎はエセルとの関係に入れあげ、最終的には米次郎がロンドン、アメリカ文壇での名声を足掛かりに満を辞して1904年に日本へ帰国する際にもエセルを連れて行こうとしたほどであった(エセルが渡日を拒否し、二人の関係は終了した)。 米次郎が日本に向けて旅立った3ヶ月後、かたやレオニーは移住先のロサンゼルスでイサムを出産した。ロサンゼルス郡立病院でレオニーは「ミセス・ヨネ・ノグチ」と自らを名乗り、新聞記者の知るところとなり『ヨネ・ノグチの赤ん坊、病院の誇りー白人妻、作家の夫に息子をプレゼントー』と世間を騒がせた。レオニーは当時友人に宛てた手紙で「彼に二度と会えない気がします」と書き、夫との別離の予感を受け入れていたようではあるが、同時期のカリフォルニア州では他の州と同様に、「白人と有色人種の混婚」が禁止されていた背景があった。それを鑑みると、この出産が違法とされた時代に生まれてくる我が子の身を案じ、レオニーが誕生に際してせめてもの贈り物として米次郎の名を添えたのであろうか。イサム・ノグチは自身の出自について「ぼくは待ち望まれて生まれたのではない。父母にとっては、不便このうえないお荷物だった」と述懐している。 米次郎は日本への帰国を機にエセルと破談になったため、今度は都合よくアメリカとの仕事の交渉窓口をレオニーに依頼し、「君は日本に来てください。(中略)赤ん坊に“父なし子”の烙印を背負わさずにすむ」と書いてきたりした。当初レオニーはアメリカでイサムの養育を希望していたものの、日露戦争に絡んだ米国内での反日感情の悪化の勢いに押され日本行きを決意し、イサムが2歳4ヶ月の頃二人は初めて日本の地を踏んだ。 そしてそれまで名前をつけられていなかったイサムは、この時に初めて父・米次郎に『勇』と名付けられた。米次郎は遅まきながらも日米の二国を背負う我が子に<勇ましく生きよ>と願ったと思われる。しかしまたしても無責任な米次郎は二人の来日時、既にまつ子という日本女性との間に子供をもうけており、結果としてイサムを長男としては認めなかった。そのため、生涯イサムは日本国籍を得ることができず、レオニーの私生児として生きたのであった。     レオニーは夫からの経済的な援助はほぼなく、日本で英語教師として生計を立てた。イサムは日本にいる間も「父親がいた生活というものは、まったく記憶にない」とつづっている。しかしレオニーは、詩人の父親、私生児、混血としての息子がこの世界で生き延びていくためイサムをアーティストにしたいと思い入れたのであろう。その母の思いに共鳴するかのようにイサムも芸術的才能を発揮し、5歳のときにイサムが森村学園で描いたクレヨン画「イバラギ県の月光」、6歳のときに粘土で作った「波」にレオニーは感嘆し、息子をアーティストとして育てる気持ちをより一層強めたと言われている。 男に依存しない独立心と、誇り高い理性を崩さないレオニーの生き方は、イサムにも大きく影響している。茅ヶ崎で暮らしている間、差別用語である「アイノコ」と呼ばれ、友達は一人もできず、田んぼに突き落とされたり、麦わらの山に頭を突っ込まれたりしてもイサムは母に甘えることもなかったが、一人で母の帰りを待ち帰ってきた母に本を読んでくれとせがんだ。その時間だけが彼の砦であった。レオニーも彼のためにと、小学校に入ったばかりのイサムに、アンクル・リーマス、イザベラ・グレゴリー、チョーサーなどの自分が愛好する文学を読んで聞かせた。不遇な中、不器用ながらも強い信頼関係で結ばれた母子であったが、イサムが7歳の時に母・レオニーが起こした衝撃的な出来事によりその関係は一変する。それはレオニーが数日間の留守ののち帰宅した手に、赤ん坊がいたという出来事であった。(この赤ん坊はイサムの妹アイリスであり、レオニーは生涯この子の父親の名を明かしていない)。イサムは「母との静かな世界が、この日をかぎりにひっくり返った」と述べている。 日本人らしい芸術性を育んで欲しいと強く願っていたレオニーの教育方針に反抗したイサムは登校を拒否し、母に「アメリカ人として教育を受けたい」と申し出、インターナショナルスクールであるセント・ジョセフ校に転校した。そこでは「イサム・ギルモア」と名乗り、野口勇の受難から解放されたに思われたが、そこでもイサムは「アジア人の目には十分に黄色ではなく、白人の目に合格するには十分に白くない」と、出生の二重性への偏見からよく取っ組み合いの喧嘩をした。イサムはどこに行っても馴染めなかったのである。   (つづく)     Reference ドウス昌代『イサム・ノグチ--宿命の越境者(上・下)』講談社,2000年. 四国新聞社編『素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証言』四国新聞社,2002年.                 文 中村 晃士        

▪️ Tour of  WEROAD   episode 36▪️   暖かい日差しの中にも時折冬のささやきを感じる池袋です。制作は大詰めを迎えています。 Wind of winter sometimes whispers in autumn's fine sunlight here in Ikebukuro. Ueda-san's work has finally reached the closing stage.         東口に続き、こちら西口側通路上部にも左官が施されていました。 Following the east side gate, there has been plastered also on the west side gate.     東口側の入口にはもくもくとした優しいスタイルのファサードが、西口側には滑らかなファサードと大きな長方形の白い壁があり、ウイ・ロードを行き交う人たちを迎え、見送っていきます。 A fluffy and friendly architectural facade on the east side, a big rectangle white wall and smooth facade on the west side are welcoming and seeing off all the passers of WEROAD.       通路内の壁面制作は全体的な微調整の段階に入り、主な制作場所は西口側通路真正面の大きな四角い壁面へと移りました。 Mural painting of the tunnel got to making minor adjustments, and the main place of artwork were moved to a big rectangle white wall of the west side entrance. 荒々しくずっと続いていく通路内の壁面に比べ、こちらは絵画のキャンバスのような長方形をしており、壁面は滑らかで下地もしっかりと真っ白に塗られています。 Compared to the

▪️ Tour of  WEROAD   episode 35▪️     池袋は晴天が続き、空気にはしっかりと秋が染み込みました。 You can see the clear sky and feel autumn thicker and thicker in the air lately in Ikebukuro.     日暮れは早まり侘しさが増す中、植田さんはウイ・ロードの西口側入り口の制作真っ最中。 そこには、懐かしい春の初々しさや夏の賑やかさを思い出す色があふれていました。 While the sun set earlier and there increased "wabi" more and more, Ueda-san was painting on the mural of the west side gate of WEROAD. And there was full of colors reminding me of reminiscent fresh spring and lively summer there.     入り口は通行する人を出迎えたり見送ったりする地点であり、長い隧道内部とはまた違った特徴があります。 隧道内部の荒削りな壁面やそれを際立たせる薄付きの下地に比べて、ここはしっかりと直線的で絵画のキャンバスのような下地が出来ています。 A gate is a place of meeting and seeing off the passers, and has different features from the long tunnel itself. Compared to the inside of the tunnel that the wall is rocky and the background is thin, the gate

▪️ Tour of  WEROAD   episode 34▪️     晴天の日や空気の中にも、少しずつ秋の寂しさが増している池袋です。 今まで装飾が無かった入り口部分にちょうど左官が始まっていました。ここからどんな風に変化していくのか。うねりのある形状は、やはり他の隧道(トンネル)にはないここだけの特徴です。     4ヶ月の長期に渡りウイ・ロード内部にあったついたてが取り外され、歩いて入ると描画の全貌が一望できるようになりました。 狭く暗かった隧道は、色の活躍によって奥行きや深みを持つ場所になり、私は「ようこそ」「おかえり」と語りかけられたような気持ちになりました。     ダイナミックにみる景色も、ふと目があうような小さな一筆も感じることができます。     はっきりとした色合いも、無意識に語りかけるわずかなグラデーションも、この場所では隣り合っています。     どこか懐かしい気持ちになる、しかし初めて出会う壮大な色の世界です。     植田さんの筆の跡、指の跡、一つ一つの色が堂々と立ち上り、この77mの色のトンネルを形づくっています。           * ウイ・ロード内部のイメージは、77mある全長が5区画に分けられている構造に着目し、古代中国に端を発する自然哲学思想である五行思想になぞらえて、各区画を「木」「火」「土」「金」「水」のセクションに振り分けています。五行説は、この5つの要素が相互に関係し、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考えが基盤になっています。 −参照wikipedia五行思想より。       文 minayuzawa

▪️ Tour of  WEROAD   episode 33▪️     季節はずれの猛烈な台風や大雨が大きな爪痕を残していく中、空気にも日々寒さが染みてきます。時折顔を見せる太陽の暖かさと、雨が引き連れる寒さが激しく交錯する池袋です。 現在、制作は池袋駅西口の北側で進行中。 トンネルを貫くテーマの、「金」「水」エリアに当たります。     ゆっくり眺めて見ると、ところどころに小さな金色の放物線のまとまりのようなものが視界をさっと横切ったり、おだやかなグラデーションがだんだんと小さな点になっていたり。     色彩の移ろいは、私に不思議な懐かしい気持ちを運んできました。 それは、小さな頃一人静かに、夕暮れとともに暗く変わっていく平野の景色を見た時のものでした。     どこまでが空で、沼で、木で、草で、私の指なのか。さっきまではあんなにはっきり分かっていたのにどんどん曖昧に変わり、最後真っ暗になる。太陽が地平の奥に去るごとに、全てが刻一刻と持っている色と温度を当たり前のように変えていく、小さな私にとっては不思議な時間でした。 見えていたものが見えなくなり、分かっていた境界が分からなくなるので、その頃は、「お日様がさようならすると、こっちのものも一緒に持って行く」と感じてましたが、真っ暗になって指と景色の区別がわからなくなるまで目を凝らして見続け、「うむ、わからなくなった」と確認して光の溢れる家に帰ることが、自分なりのけじめだと勝手に感じていました。     夕暮れの時間は、太陽の暖かさとそれを失う寒さや暗さが同居し、無数の色が煌めいて全ての景色の境界がぼやける時間。 それは今ちょうど私たちを包んでいる、秋から冬へと季節が変わる時の空気が持つ厳しさと似たもののように感じられました。     ずっと遠くに冬の足音を聞いたような気がしました。       * ウイ・ロード内部のイメージは、77mある全長が5区画に分けられている構造に着目し、古代中国に端を発する自然哲学思想である五行思想になぞらえて、各区画を「木」「火」「土」「金」「水」のセクションに振り分けています。五行説は、この5つの要素が相互に関係し、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考えが基盤になっています。 −参照wikipedia五行思想より。       文 minayuzawa